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パタヤ初めてガイド - 漁村から娯楽の大都市リゾートへ

パタヤ初めてガイド – 漁村から娯楽の大都市リゾートへ

パタヤを紹介するときは、パタヤの中心地からやや南のプラトゥムナックにある丘からパタヤ湾を撮影した写真が良く使われる通り、海沿いに栄えた都市です。スワンナプーム国際空港から車で約90分、パタヤはここ20年近くの間に急速な発展を遂げました。漁業と農業を営む未開のジャングルから約10万人の観光客が訪れるタイで有数の人気スポットになった理由を、観光情報と合わせてお届けします。

 

パタヤの実態と統計

パタヤの発展は、20年間近い計画で古くから漁港として利用されていた港を改修したバリハイ波止場(Bali Hai Pier)に端を発します。1978年に国から市の地位を与えられて以来、バンコクから近場のリゾート地として人気に拍車をかけて開発が加速し、パタヤビーチ、ウォンアマットビーチ、ジョムティエンビーチに商店街が次々と建設されました。

パタヤの人口は住民登録されている人数でわずか10万人。労働者の多くがタイの東北地方出身で、住民登録を移さずに労働している者が多く、市の職員によれば実際は50万人近い住民が住んでいます。外国人定住者は約4万人で、3分の2が退職してからの移住者です。情報ソースにより住民登録がない人数を含めた統計は異なりますが、20〜75万人の範囲にはあるだろうとの予測が一般的です。

パタヤで接客業に就く地元タイ人のほとんどが、片言の英語を話すか日常会話に問題ない水準の英会話能力を持ちます。外国人訪問客が収入源のショップは多く、英語、ロシア語、ドイツ語、中国語、日本語、韓国語まで、様々な言語の看板を見かけます。多国籍うずまく自由で刺激的な世界にハマる旅行者が一向に絶えません。

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気候、天候データ

パタヤのビーチ付近で夕方になれば感じられるように、日中の年平均は22〜27度くらい、最高気温の平均でも30〜33度の間なので比較的過ごしやすい気候です。11〜2月の乾期には早朝20度を下回る日もあり、日本の春や秋のカラッとした日がベストです。

インフラ設備が整っているおかげで、パタヤの郊外では水不足が発生していてもパタヤは平気なケースがほとんどです。それは、11月より以前の雨季を効率よく利用して、ホテルや企業が独自の貯水タンクで水の供給を管理しているためです。

パタヤビーチ発展ストーリー 〜漁村から娯楽の大都市へ〜

パタヤは1960年代初頭に観光地として名前が広がりました。タイ全土が観光立国として成長するプロセスにおいて、バンコクから気軽に行けるビーチエリアのホアヒンとパタヤの開発は重要でした。

さて、パタヤの発展を生んだ動力の起点はなんだったのか。アユタヤ時代の歴史を振り返ってみます。

1767年、ビルマ(現ミャンマー)からの攻撃下にあったアユタヤ王朝は、Phraya Tak(パタヤという地名の由来の説がある。)軍が見事な戦いによりこの地でビルマ軍を打ち破ったことで反撃に転じ、パタヤが国民に知られるエリアとなりました。Ph(R)attayaから発音がし易いPattayaに簡素化されましたが、サウスパタヤのThap Phraya通りにプラヤー軍隊を意味する名前が残っています。

翌、2世紀に渡って歴史の地図上にその最初の足跡を残した後、透き通ったパタヤ湾で眠る静かな漁村は穏やかでした。ベトナム戦争で数千人の米兵軍が駐留するまでは。

公式記録は残されていませんが、サッタヒープ近くのウタパオ(U-Tapao)軍用空港に駐留した米軍の軍人が、1961年4月29日(他のソースによれば、1959年6月中旬)に最初のグループとしてパタヤへやって来ました。休息とレクリエーションが急速に必要だ、と言いそれが他の米軍兵を雪崩式に呼び込む形となります。

その頃は、現在のサウスパタヤ付近に漁村の小屋とヤシの木が木陰を作るエメラルドブルーのビーチがあっただけです。にもかかわらず、ベトナム戦争で疲弊しきった米兵の癒し所としてたくさんの外国人が訪れて滞在を楽しみました。

1970年代に入ると予想以上の人の入りによりホテル、レストランが不足状態になります。ヨーロッパ人にもPattayaの名前が広まり初め、観光客が好む西洋スタイルのバーがあちらこちらに建ち始めました。

 

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同時に何百、何千とも言われる若いタイ人女性(主に貧しい東北地域から)がお金の匂いを嗅ぎつけ、米兵を富裕層のターゲットに絞りパタヤへと押し寄せた。当然、セックスに飢えた米兵がタイ人女性の虜となるのに時間は掛かりませんでした。野生の王国で、ただビーチでお酒を飲んでフライドライス(炒飯)を食べて、ビーチ沿いでハンモックに揺られること以上を求めていなかった男心につけこむ当時のタイ女性。数十年経った今も変わらない構図がこの時から始まりました。

インターネット上で見つけられるパタヤの古い写真からは、あまり多くの情報を得られませんでしたが、1970年初頭からタイのR&Rに勤務するリポーターからは、実在する性のディズニーランド(as being a sexual Disneyland)と表現されています。男は魔法をかけられて夢を見るが、ディズニーランドの出場口を踏む頃には資産を全て失うほど刺激的、なパタヤが欧米人にウケないわけがありません。ベトナム、他の東南アジア地域は、バンコク、パタヤにしてやられました。仮想世界にも近い現実離れした体験が出来るタイの2大都市が、ベトナム戦争によって自然発生した観光競争に勝ちました。リポーターからは続けて、「バンコクは人混み、異臭、お金を欲しがる女性達のイメージがある。パタヤはもっとゆったりして清潔で、小さいバンコク。」と付け加えました。

タヒチアンクイーン(Tahitian Queen)とは、パタヤで最古のゴーゴーバーのことで、ベトナム戦争が終了するまでの間、訪れる欧米人で知らない者はいない、どころか行かない者はいないくらいに有名な場所でした。1970年代から80年代にかけては、外国からの観光客数だけでなくタイ国内の富裕層も増加したため、外国人投資家に出資を得た観光事業の立ち上げが流行りました。

 

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海岸沿いの漁師小屋は、次々とレストラン、ホテル、バーに建て替えられ、イサーン地方の農村へ大型バスが往来し始めました。最初はバス運行会社ではなく、ゴーゴーバーで働く女性を調達するため投資を受けた起業家らが良い生活と引き換えに用意したものです。10年間で数百万人のバーガール達がバスに乗ってパタヤにやって来たと言います。漁村を営んでいた地元民とも歩調を合わせ、近代化により発生する交通問題、環境汚染、犯罪、薬物問題を協力して処理しました。

1990年代以降、パタヤは一大観光都市として、多様な目的を持つ観光客で溢れかえります。特にミレニアム変わり目以降は、パタヤは様々なライフスタイルを継続的に提供し、カップル、家族、もはや伝統の年老いた独身男性まで、世界中すべてのニーズに応えるパタヤビーチの今があります。

 

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毎月の生活コストと休日プラン

パタヤは現代的な国際都市です。地元のスーパーマーケットと大型ショッピングモールが各地域にあり、日常生活で不自由なことは見当たりません。一歩踏み出して地元の人と同じような屋台、市場に行けば昔ながらのタイを味わうことができます。近代的な西洋スタイルと混在するエキゾチックなアジア文化に魅力を感じたら最後、それがパタヤの思うつぼです。

  • 宿泊(安宿2人部屋):400〜900バーツ
  • タイ料理:1食あたり30〜150バーツ
  • 外国料理:1食あたり100〜400バーツ
  • 周回バス:(固定ルート上)10バーツ
  • タイマッサージ:1時間あたり100〜400バーツ
  • バイクのレンタル:1日あたり100〜200バーツ
  • デッキチェア(ビーチ):30〜40バーツ
  • 国産ビール(バー):1本60〜100バーツ
  • 輸入の酒類:1杯90〜200バーツ
  • ソフトドリンク、ジュース、コーヒー:20〜80バーツ

出典: Pattaya Funtown

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